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諸宗教の神学における「インターフェイス」概念の使用 - その理論と実践

dimanche 10 août 2014 par Phap
英語での翻訳 - Traduction en anglais フランス語での翻訳 - Traduction en français

諸宗教の神学における「インターフェイス」概念の使用
その理論と実践


(日本語翻訳 : 山本謙) [Traduction en japonais par M. Ken Yamamoto. Article publié en français dans la revue : Chemins de dialogue n°32, Décembre 2008, « L’Église et le judaïsme » : voir l’article « Pour une utilisation raisonnée du concept d’’interface’ en théologie des religions », p. 181-189]


1. 方法論的考察

本稿は諸宗教の神学における比較行為の反省的考察を行おうとする。その際、宗教伝統を、個々の要素がその意義を他の諸要素との共時的(範辞的次元)また通時的(連辞的次元)な差異関係から引き出すシステムとみなす方法を用いる  [1]。宗教をシステムの観点から扱うことで比較の行為が可能になるのだが、それは二つのシステムからばらばらに引き出された個々の要素を比較するではなく、二つのシステムの機能と構成とを比較するからである。具体的には、情報科学に由来する「インターフェイス  [2]」という概念を手がかりに比較行為の構築が目指される。
情報科学において、「インターフェイス (interface)」とはふたつのシステムの間(inter) に立ち、それらの間の交換/対話を可能にするものと定義される。この可能性は、インターフェイスは二つのシステムのそれぞれと対話ができるという事実に由 来する。諸宗教間 (inter-religieux) 対話の分野に応用されると、インターフェイス概念は複数の宗教伝統の相互交換を可能にする。しかも、宗教伝統を人間が「究極的なもの  [3]」を言葉で表現する場と考えるなら、インターフェイスを構成する有力な候補となるのは人間論 (anthropologie) である。たとえば、浄土仏教徒の語ることはキリスト教徒によってある程度まで理解されうる。仏教徒の表現する「実在的経験  [4]」は人間的経験であり、「人間的なもので私に無縁であるものは何もない  [5]」からである。
浄土仏教徒の経験がキリスト教徒によって理解されうるのは「ある程度まで」であるというのには二つの理由がある。1.信 仰者には、自分の属する宗教伝統が「究極的なもの」とのかかわりで実在的で根本的な決断をせよと呼びかけているとわかる時が来る。人間は自らの全実在を二 つの異なる究極的なものへとかけることはできないゆえに、複数の伝統からひとつの伝統を選びとらなければならない  [6]。2.自らの選択に忠実であり続けることから、スコラ学者がハビトゥスと呼んだもの、すなわち獲得された自発性が生まれる。そのとき宗教伝統は、直接性と自明性という、この道をたどりつづけない者には経験できない性格を獲得する。


2. 応用– 浄土仏教とキリスト教の比較

こうした方法論的考察をふまえて、われわれの研究成果の紹介へとうつろう。ここでは比較行為を三部で構成された表の形で 示した。左の部分と右の部分はそれぞれ仏教的経験とキリスト教的経験である。さらに、この二つの経験はその間 (inter) にあって中央部に位置する人間学的経験の仲介によって結び合わされている。

浄土仏教はかく教える。 インターフェイスが翻訳する。 キリスト教はかく教える。
仏教によれば、人間には仏陀によって見出された、輪廻転生からの脱出を可能にする中道がある。しかし人間は自らの行いによっては仏法のめざすものに達することはできない。末法の世においては自力によって悟りを開くことは誰にもできないのである  [7] 人間は、「理想」に達することは不可能で、閉じ込められた状態にあると感じる経験をする。彼の前には障害物があり、「理想」を実現することを妨げられている。 ユ ダヤ人にはアブラハム、イサク、ヤコブの神によってシナイ山で啓示された律法がある。しかし人間は、自らの行いによっては律法のめざすものに達することは できない。パウロによれば、律法の行いによっては誰も神の前に義人とはなりえない。この不可能性は最初の人アダム以来のものであり、堕罪以後の歴史におい ては、キリストへの信仰によらずに救いにいたることはできないのである。
阿弥陀によって信心を得ることにより、人間はもはや生死の縄目に捕われていないという信頼感を得られる。言い換えれば、人間は、信の一念からすでに不退の位についていると知りつつ、死後に(あるいは死と同時に)浄土に往生して悟りを開くという信頼感を得る。 人間は救いの経験において障害物が取り除かれることを感じる経験、あるいはやがて取り除かれるという信頼を感じる経験をする。 洗礼において象徴的に(より正確に言えば典礼の形で)表されている、キリストによって捕らえらはじめられているという事実よって、人間 は自分はもはや罪と死に結びつけられていないという信頼の経験をする。言い換えれば、人間は自らを新しく創造されたもの、「神の子とされたもの」、「光の 子」そして永遠の命へと招かれたものと感じる。
(われわれの見るところ、) 救いの原動力は阿弥陀によって実現される本願のうちにある。 こ の信頼は「理想」の実現を可能にするようはたらく他者の現存に基づいてる。人間は自分のうちでこの力がはたらいていることに感嘆する経験をすると、それ以 前の実践は無益であり、反生産的でさえあったと考えるにいたる。他者の援助なしに救いにいたれるという幻想をその実践が抱かせていたからである。 (われわれの見るところ、) 救いの原動力はキリストの復活の後にパウロに与えられた聖霊のうちにある。パウロは聖霊を信仰者のうちに宿り、神に「父よ」と叫ばせるもの、信仰者を神の子とするものとしている。
信の一念によって阿弥陀によって捕らえられた者は努力をする必要がない。(なされるままにしようという努力も含めて。さもなくば、自力に頼ることになる。) 他者の行為への協働という問いは様々なかたちで扱われる。ここでインターフェイス概念は限界にいたる。 パウロによれば、信じる者が聖霊の働きと協働するかぎりにおいて、聖霊の賜物はその力を発揮する。とはいえ人間が自らの努力によって救いを得られないことは言うまでもない。

この研究の成果の論拠づけはここでは割愛する。他方、二つの宗教伝統の記述は大まかなものにとどまっているということを 付言しておきたい。浄土仏教の内部で浄土宗と浄土真宗の区別がなされていないし、またキリスト教の方はパウロ書簡から読み取られるものに収束させている。 さらに詳細な議論を求める読者は筆者がパリカトリック学院 (Institut Catholique de Paris) に提出した修士論文を参照されたい  [8]


3. 比較行為の批判的まとめ

三部構成の表で研究結果を提示することによって、帰属の類比  [9] に依存する従来の手法に対するインターフェイス概念独自の有効性が浮び上がる。類比的比較は、各伝統にひとつの部分を当てることで二部構成の図式にたどり つく。この比較のおいては、それぞれの伝統内部での諸要素の関係が (垂直方向の読解により) 明示されるとはいえ、共通する関係、すなわち、二つの部分 の並列から結果し、水平方向の読解から生まれる比較の第一項 (primum analogatum) が忘れられてしまう。たとえ、中央に位置する第三列で比較の第一項を明確にすると仮定しても、この第一項は、第三項 (tertium quid) として機能する恐れがあり、いわゆる「第三の男」の批判を招くこととなる。それゆえ、さらに別の比較の第一項を、先の比較の第一項とその他の比較項の間に 導入しなければならなくなり、きりがなくなる  [10]

インターフェイス概念がこの困難を回避できるのは、このコンセプトが比較される二つの伝統と同質な第三項としてではなく、ヒューリスティックな道具として 機能するからである。この観点からすれば、「究極的なもの」の概念を、その人間学的意義のみを考慮に入れつつインターフェイスとして用いることで、「中立 性」が保障されることとなる。それは、インターフェイスが「究極的なもの」の – たとえば、仏教的あるいはキリスト教的 – 表現の真理性の主張については判断を保留するからである。

「中立性」という言葉に対するさらなる批判としては、我々の手法が「科学主義」に陥る、すなわち歴史的偶発から切り離され、あらゆる宗教伝統を明確に説明 できる「真理」を要請するというものだろう。この批判に答えるために繰り返しておくが、インターフェイス概念の用法は限定されており、この概念は諸伝統を それらに内在する論理そって完全(°°)に(°)説明することを可能にするものではない。ひとつの伝統を別の伝統に変形することを可能にする位相同型 (homéomorphisme) を構成するものではないのだ。むしろ、この概念の使用は、ひとつの伝統を別の伝統へ還元することが不可能であることを現実に確認することへと導くのであ る。インターフェイスによって我々は全体化の道具や視点を手にしているのではない。「神の視点」  [11] をとろうというわけではないのである。他方、われわれはインターフェイス概念の使用によって、情報科学に親しんでいるメンタリティーに参入しようとする。 このことは、この概念により我々の議論に「現代人 (モダンなあるいはポストモダンな人間)」の興味を引くことができるという意味で有効だと思われる。浄土仏教徒もキリスト教徒も、好むと好まざるとにかか わらず、自らのうちに抱えているのが「現代人」なのであるから。


結論 – 神学者の役割

ここまでの議論は宗教科学というアカデミックな枠組みには入りうるが、カトリック学院が求める枠組みに対しては神学的な次元が欠けているという意味で不十分であろう。そこでこの次元  [12] を、インターフェイスの人間学をキリスト論的に捕らえなおすことよって導入しよう。キリスト教徒を自認する者としては、人間的経験(および、経験自体と相 互に条件づけの関係にある経験の表現)のすべてを、ナザレのイエスという人の唯一で乗り越えられない経験 (いかなる経験も彼の経験を乗り越えたことはないし乗り越えることはない) と照らし合わせる。われわれキリスト教徒にとって、キリストのなした経験は人間の経験のすべての「究極」を構成するのである。

われわれがこの人がそのような特別な位置にあるとが信じるのは、この人において、この人においてのみ、この人の「行為」において、二つの事柄の成就が結びつくと信じるからである。

1. われわれが「神」と呼ぶ存在が御自身を惜しみなく与える  [13]という賜物
2. 究極的なものへの、すなわち神への人間からの完全な応答。この応答は、この人が父と呼ぶ神の御心を行うために、その全存在をかけた「然り」という応答に存する。

このキリストを中心とした人間論はジャック・ドゥピュイ (Jacques Dupuis)  [14] の言う「成就の理論」に響きあう。この人間論により、カトリック神学者は、現代のエートスの「相対主義」を批判する教会の権威の憂慮へ応答することができ る。ただここで注意しておきたい点は、神学的とらえなおしをしたわれわれの比較行為においては、キリスト教的表現とキリストのなした経験とが(統一するた めにまず)区別されているということである。キリストはご自身の歴史的また文化的に規定された行為と言葉とが成就するところに臨在すると約束されたのであ るから、そのかぎりにおいてキリスト教的表現はキリストのなした経験に最適な表現の場を構成する。さらに正確に言えば、このキリストのなした経験の表現は 「確かめられ (être vérifié)」また「真理とされ(être véri-fié)」なければならない。「真理をつくる (faire la vérité)」キリストの働きによって試されなければならないのだ。この真理こそが、キリスト教的表現がキリストのなした経験とむすぶ関係、すなわちこ の表現を喚起し、この表現が照らしあわされるべき、また実際に照らしあわされている– この点については典礼神学的考察を行わなければならない – 経験と結ぶ関係を価値あるものとするのである。

知識論に終始したという印象で本稿を終えないために最後に強調しておきたいことは、浄土仏教との出会いのような、別の宗教伝統との出会いがわれわれに喚起する敬意と感謝の念である。こうした思いが喚起されるのは、他者が人間存在の神秘について語ることへの(トレルチ  [15] の言う)「感情移入(Anempfindung / empathie)」あるいはそれとの(キリスト教的語彙で言うなら)「交わり」をもてるとわかるときである。人間存在、ハイデガーはそれを「それについ て存在が問われる現存在」と呼んだ。聖書は「六日目に神の形に似せて創造されもの」と語る。キリスト教徒なら、「歴史の中で、ナザレのイエスというこの一 人の人において、神のすべてが『肉体において(corporellement)  [16]』展開したという前代未聞の出来事を付け加えて」と言うだろう。


© esperer-isshoni.fr, January 2009
© esperer-isshoni.info, August 2014

[1BENVÉNISTE, Émile, Problèmes de linguistique générale, Paris, Gallimard, « NRF », 1966, p. 22を参照。われわれの立場から言えば、諸宗教伝統はひとつのシステムの視点から、しかも他のシステムの視点を排除することなしに分析しうる。

[2「英語では、インターフェイスという概念は、もともとふたつの物体あるいはふたつの空間の間の分離面または分離帯を意味したが、その後化学および情報科学 の分野に移行するとよりメタフォリックな意味を獲得する。(…) 情報科学においてインターフェイスという概念は、機械と人間との交差する場におかれるすべてのハードウェアおよびソフトウェアをさす。」 (Dictionnaire des Sciences, Michel SERRES et Nayla FAROUKI (dir.), Flammarion, 1998, p. 488-489。)

[3「究極的なもの (l’ultime)」を大まかに定義するなら、宗教伝統にとって乗り越えがたい参照点、すなわちその伝統のすべてにとっての参照点 (omni-référence) 、自己以外の参照点を持たない参照点(auto-référence) ということになろう。(「乗り越えがたい」という言葉は時空的表象と結びつく。垂直性のイメージについてはVERGOTE, Antoine, Interprétation du langage religieux, Seuil, 1974, p. 99を参照されたい。)「究極的なもの」よりも「絶対的なもの (l’absolu)」の方が好ましいという向きもあろう。究極的なものは動的なプロセスのイメージを喚起する。究極的なものとは始まりに源泉として、あ るいは終わりに到達されたものとしてあると解されるからである。「絶対的なもの」のほうは、「結びつけ」られたもの (le relatif) と「結びつけ」られていないもの (l’ab-solu) の間の静的な対立を示すように思われる。前者においては連続性が、後者においては断絶が強調される。この二つの側面は相互排除の関係においてではなく、む しろ緊張をもった呼応関係において理解されるべきだとわれわれは考える。

[4アントワンヌ・ヴェルゴット (Antoine Vergotte) は経験を5つタイプに分類している。(VERGOTTE, Antoine, religion foi incroyance, étude psychologique, Pierre Mardaga éditeur, Bruxelles, 1983, p. 113-118 。) われわれが「実在的経験」とよぶものはそのうちの2番目と3番目のタイプのもののコンビネーションである。
主体の歴史のうちに生じ、主体を変容させる出来事と結びついた経験。ドイツ語でErlebnisとよばれるも の, 「未知のものとして出現し、主体を驚かせ、主体の個人的実在において主体に問いかけ、さらに主体を変容させる、そのような超自然的なものを感覚を通してと らえること。」
人間主体が変貌の効果を長期にわたって発展させた経験。(スコラ学者の言うハビトゥスを獲得した経験)。この意味ではヴェルゴットの言う3番目のタイプの 経験と符合する。「そこへ自分の存在を投じた個人的でかつ持続する接触、の成果である知識。」 (Ibid., p.117。)

[5テレンティウスの言葉。« Homo sum : humani nihil a me alienum puto. » (TÉRENCE, Tome II, Heautontimoroumenos Phormion, texte établi et traduit par J. Marouzeau, Paris, Les Belles Lettres, 1947, p.23。) アウグスチヌスはマケドニウス宛の書簡でこのテレンティウスの言葉に言及している。「この返答に、無学で思慮の浅いものたちばかりの劇場は拍手喝采のあら しとなった。人間としての共同体の感覚が観客全体をとられ、おたがいを隣人と感じないものは誰もいないほどであった。」(マセドニウス宛書簡155) ここではヴットゲンシュタインに由来する「生活形式 (Lebensformen)」というカテゴリーを手がかりとするべきだろう。ヴットゲンシュタインはこの言葉を複数形で用いていることに注意されたい。

[6複数の伝統への所属の問題に関する文献としては、Vivre de plusieurs religions. Promesse ou illusion ? Dennis Gira et Jacques Scheuer (dir.), Paris, Éditions de l’Atelier, « Questions ouvertes », 2000。

[7ただし、浄土思想によれば、末法の世でなければ自力に頼って悟りを開くことができる。

[8この修士論文の改訂版は本ホームページ 上でも閲覧できる。

[9« 類比すなわち比例によって » (トマスアクイナス「神学大全」第一部、問13、第5項)。比例姓の類比と帰属の類比については、JÜNGEL, Eberhard, Dieu Mystère du monde, Fondement de la théologie du Crucifié dans le débat entre théisme et athéisme, traduit de l’allemand sous la direction de Horst Hombourg, 3° édition revue, Tome II, Paris, Cerf, « Cogitatio Fidei », 1983, p. 75-76を参照。

[10この点については、クロード・ジェフレ (Claude Geffré) のような論者との議論をさらに発展させなければならないだろう。ジェフレによれば「諸宗教の比較神学は複数の宗教システム間にある構造のアナロジーを探求する。」(GEFFRÉ, Claude, De Babel à Pentecôte, Paris, Cerf, « Cogitatio Fidei », 2006, p. 132。) ジェフレはデヴィッド・トレイシー (David Tracy) の呼ぶ「類比的想像力 (imagination analogique)」の実践を提唱している。

[11すなわち「われわれの言語と信念の殻を破り出て、それらによらなければ知ることができない何かに照らして、それらを調べてみるという可能性」(RORTY, Richard, Objectivisme, relativisme et vérité, traduit de l’anglais par Jean-Pierre Cometti, Paris, Puf, 1994, p. 16。P. 26 とp. 40も参照。)

[12神学的行為の (時間順序において) 二次的な性格について考えてみることが必要となろう。

[13神学においては神の「Autocommunication」と言う。

[14DUPUIS, Jacques, Vers une théologie chrétienne du pluralisme religieux, op. cit., p. 200-215 を参照されたい。ドゥピュイは成就の理論を次のよう要約している。「これらの諸宗教はイエスキリストの来臨以前は『福音への準備』とみなされることが可能 であったが、この来臨の出来事とともに過ぎ去ったものとなり、それらの宗教に属する人々の救いのための積極的な役割を完全に失うこととなった。」 (Ibid., p. 239). P. 254-257も参照。さらに、GEFFRÉ, Claude, De Babel à Pentecôte, op. cit., p. 124-125を参照。

[15トレルチの「仮定的感情移入(empathie hypothétique)」の概念からわれわれの受ける恩恵は大きい。TROELTSCH, Ernst, « L’absoluité du Christianisme et l’histoire de la religion » in Histoire des religions et destin de la théologie, Œuvres III, Traduction de Jean-Marc Tétaz, Paris-Genève, Cerf -Labor et Fides, 1996, p. 63-.177を参照。「感情移入」の概念には p. 66, 79, 85, 116, 118, 123, 124, 137, 176において言及されている。(特にp.123を参照。)

[16「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって (somatikon : 肉体において) 宿って[いる]。」(コロサイ人への手紙第2章9節)


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